2012年1月31日火曜日

第10回キャラバンレポート(2) 小池宏司


3.11以降、10ヶ月が過ぎた。SWTJにとって10回目のキャラバンであり、自分にとっては初めてのキャラバン参加である。自分はあまりむつかしいことが考えられない。BlogもFacebookもしたことがない。したいと思ったこともない。けれど、はじめてしたいと思った。自分の感じたことを、現地の情報をを発信しなければならないと思った。むつかしいことを考えられないので、むつかしいことも書けない。でも、自分の言葉で書くことはできる。何ができるか分からないけれど、新米隊員にできることと、できないことをあれこれ悩みつつ、新米隊員にしかできないこともあるはずと思うことにした。背筋をシャンと伸ばして、自分の中の芯をしっかりと保たなければ、お手伝いさせて頂くこともできないと考えたからである。

多くの死傷者を出し、原発事故を誘発し、日本経済に大きな爪痕を残した東日本大震災。尊い多くの人命が流れ、人々が大切にしていたものが流れた。世界にひとつしかない思い出のつまったものが、たくさん失われた。普段、ものづくりに携わる者として、瓦礫の山を見て愕然とした。「瓦礫の山」と一言で済まされているが、そのひとつひとつは人々の大切な思い出のつまった財産だったのだから。その言葉がニュースで報道される度、怒りと悲しみを覚えた。と同時に、自分のやってきた「ものづくり」に関して大きな疑問を感じるようになった。

ただ単に、ものをつくっていてはダメだ。どうしたらいい?なにをしたらいい?答えを見つけるのに、何ヶ月も経過していた。だいぶ遠回りをしてきた。でも、その答えはすごくシンプルだった。実際に、現地に行って、自分の目で見て、耳で聞くことだった。現地の空気を吸って、現地のものに手で触って、現地の食べ物を食べて、現地の人とたくさん話して、現地の多くの要素を自分の小さい身体の中にたくさん詰め込むことだった。現地を詰め込んでいくと、一挙手一投足から現地が出てくるような気がした。指先からも、口先からも、体内で消化した現地が、自分ができるやらなければならないこととして、出てくる気がした。自分自身が現地になった上で、この先を生きることこそが、未来に続く子供達へ語ることの許される資格だと思った。「何を今さら言ってやがる!」という罵声を浴びせられそうだ。全てを承知の上で、叱られついでに自分の愚かさを今ここで白状したい。

3月11日、ニュースを見て、すぐに思った。「現地に飛ばなければっ」と。しかし、次の瞬間「時間がない、資金がない」と言い訳する自分がいた。日々刻々と状況が変わる中で、原発事故が起こり、「放射能が怖い」と募金で済ませている自分がいた。日常生活を送りながらも、脳と心の大部分に、ドロドロとした葛藤が渦巻いていた。犠牲者の方々、避難生活者の方々のために、今の自分の精一杯の気持ちを込めて、卒業制作で作品をつくろうとした。しかし、いくら手を動かし、徐々に作品が形を成してきても、人の生き死に関わることをコンセプトにするプレッシャーに押しつぶされていくようだった。むしろ、犠牲者の方々へ何か失礼ことをしているようで、その作品を潰したいと心底思うようになっていった。

次第に、3.11に関するニュースは徐々に影を薄めていき、緩やかな風化のはじまりがきたと感じた。自分の胸に手を当ててみると、ドロドロとした葛藤が、カサカサとごわつきはじめていた。そこで、はじめて気がついた。自分の中でも、風化がはじまっていたのだ。まずい!このままでは人間として生きていけない。大急ぎで、東北に飛ぶための資金を稼ぐために、バイトを探しはじめた。探しはじめて間もなく、人づての紹介で短期バイトが決まる。SWTJの存在を知る。そして、キャラバンに参加させて頂くことになる。話がトントン拍子で怖かった。夢でも見ているようで現実感がなかった。僕はやることなすこと不器用だから、その度に人のご縁を頂いて、どうにかこうにかやってこれている。できることしかできないけれども、こうしてキャラバンに参加させていただけるチャンスを与えていただいたSWTJの皆さんには、本当に感謝してもし尽くすことができません。そして、最初に謝っておきます。長文になります、ごめんなさい。書きたいことが山積みなのです。



出発前夜、ふと思う。恥ずかしいことに、ボランティアというものを、31年間生きてきたのにも関わらず、今の今まで一度もした事がなかった。まずは、ボランティアの心構えなるものを、ネットのあちらこちらから見つけ出し、継ぎ接いでいった。そして、現地で仲間に迷惑をかけないように、数日前から自己管理をはじめた。風邪を引かないように、防寒対策や常備薬などの装備を整え、汚れてもいい服装、動ける服装を用意して、あれやこれやしているうちに、京都→仙台の夜行バスの出発時間が刻々と迫ってくる。 



京都駅八条口バス乗場に20:40到着。バスに乗り込み、いざ仙台に向けて21:00出発。途中、天候不順のため、道路の路面状況が悪化してくる。そうこうしているうちに、乗務員さんから「雪のため、郡山から先、高速道路は全面通行止との情報が入っております。一般道路を走行し、仙台駅まで運行しますが、何時間遅れるか分かりません。お急ぎの方は、郡山駅で降り、新幹線にお乗りになられた方が良いかと思われます。なお、運賃の払戻は承ることができませんのでご了承を・・・」とのアナウンス。「えっ!」これはやばい。最初の試練だ。寝ぼけた頭を駆使し、充電切れしそうな携帯を酷使し、心もとない財布と相談し、ベストな方法を検索する。

頭も携帯も財布も、バーンアウトしそうになりながら、郡山から新幹線と在来線に乗ることにした。郡山(6:52)→仙台→一関→気仙沼(10:59)と、逆に当初の計画より30分早く到着する結果となった。SWTJ代表吉川恭生さんに電話し、気仙沼駅まで迎えに来ていただき、ベースキャンプの月立小学校に到着。保健室に荷物を置き、早速、「森の学校」名物の八瀬そばのお手伝いをさせていただくことになる。鯛やきのワゴン販売の差し入れをいただき、美味しいおそばもいただいてしまって、今回のキャラバンで自分に課せられた大工ミッションを、まだ何もしていないのに満腹になってしまった自分に少々不安を感じつつ、次なる場所へ移動。いざ、陸前高田・財当仮設住宅へ。



陸前高田・財当仮設住宅のみなさんとの新年会。メニューは粕汁。大きな寸胴鍋に、「これでもかっ」てくらいの具だくさん。鮭も事前に、渡辺英治隊員によって炭火焼きにされており、そのままでも美味しそう。この後、鮭を鍋に入れ、身をほぐした後に、こんにゃくを入れ、ひと煮立ち。酒粕と味噌を順番に溶きながら入れ、最後にお塩で味を引きしめる。これまた、美味しすぎる。


「こんなに人が集まったのは、はじめてだぁ」と、財当仮設の戸羽会長が喜ばれていたのが印象的。「普段は、こうじゃないんだよ。ありがとね」と、僕はまだ食べることしかしていないから困惑する。この時、食べること、話すこと、笑うことにミッションをチェンジした。ドライバーだったので、お酒を呑むことはできなかったが、温かい雰囲気にどんどん呑まれていって、人と人が連なっていくのが分かった。藤本明佳音隊員も、戸羽会長の奥さんとすっかり意気投合。郷土料理のレシピを教えてもたっていた。一級建築士の英治隊員も、戸羽会長と気仙大工について熱心に語っていた。一言では言い表すことができない、深い意味の「乾杯」がそこにはあった。

新年会が16時スタートだったので、まだ外の風景は夕焼け空。財当地区は周囲が山に囲まれ、田んぼが広がっていた。ここから海は見えない。川を遡ってきた津波が運んで、残していった漁船が、ぽつねんと田んぼに取り残されていた。きっと、震災前は美しい田園風景だったに違いない。水田は、山から水を引くことで山の養分が運ばれ、毎年同じ土地でお米をつくっても、連作障害を起こさない素晴らしいシステムだ。先祖代々受け継いできた水田で、家族を養うため、おいしいお米をつくるため、年貢という重税の搾取に耐え忍びながら何世代もの時間をかけて、小石を取り除き続けた美しい水田は、無惨にも泥と小石に覆い尽くされていた。畦路も水路もズタズタだった。でも、きっと、必ず再生するはず。新年会を通じて、みなさんの笑顔を見て、そう確信した。





新年会の後、SWTJ気仙沼支部の吉田勝彦事務局長のご自宅へ。勝彦さんのご好意で、隊員の労を犒うためと、風呂と夕飯と寝床まで頂戴することに。 酒盛りをしながら、色々な話題が飛び交っていた。時計が24時を過ぎた頃、なぜか誕生日の話になり、ふと気づく。あっそうだ、今日、誕生日だ。バースデーソングを歌ってもらう最高の日となりました。この写真は一夜明けての朝食風景。こんなにおかずの多い朝食は久しぶり。久しぶりすぎて、ごはんとおかずのペース配分を忘れていている自分にビックリ。なかなか同時に食べ終らない。



2月のチョコレートキャラバンと、3月の鎮魂音楽キャラバンの打合せをするために、南三陸方面へ移動。その道中、被害の大きかった海岸沿いに車を走らせ、現状を視察する。宮城県気仙沼向洋高等学校の校門前の写真。あちらこちらに水たまりがあり、一見歩けそうな土の部分も泥濘がひどく、歩く度に土が靴裏にへばりつき、どんどんと靴が重くなる。校門の前の道を、4t車や10t車のダンプカーが頻りに通り過ぎ去っていく。荷台にたくさんのコンクリートの破片や、鉄くずを載せている。各自治体で問題となっている瓦礫受入問題が脳裏に浮かぶ。後日、気仙沼市内の銭湯で出会った方も、滋賀県から瓦礫撤去に来ていて、ダンプカーを運転しているのだと話されていた。


校舎は、3階まで津波がきたため、3階までのガラスは全て割れていた。港や市場で使っていたであろうバケツや網やパレット、軽トラ。学校で使われていたであろう道具箱や文房具、黒板消し。家庭で使われていたであろう座布団や食器やベビーカー、照明器具。それらが取り残された魚と混ざり合って、腐臭を発しながら散乱している。その混ざり合い方は、人知をはるかに超えているように感じた。校舎の1階に優勝カップが立っていた。腐食が激しく、文字盤に書かれている言葉を読み取ることができなかったが、荒れ果てた校舎の中にスクッと立つその凛々しい姿は、東北の人々の心根の強さを現している気がした。そして、長い道のりの先に必ずくるであろう本当の意味での「復興」を、いち早く褒め讃えているようだった。





地域により復興のスピードに差異があり、それらを断片的に垣間見ただけであったが、苦労と苦心の果てに、その復興があるのだという経緯が分かる。自衛隊や消防隊の方々、現地やボランティアの人々、多くの人の力で、少しずつきれいに片付いているのだという事実が、ひしひしと伝わってくる。 ボランティアで難しいのは継続だと言われている。食料や必要品を給付することは重要だ。しかし、今の段階は「ものを与える」ことではない。すでに次なるステージに移行しているのだ。失われたものをそっくりそのまま取り戻すことは我々にはできないが、取り戻すための時間を共にすることはできる。 一緒に考え、一緒につくる。色々なことを話しながら、気持ちを共有していくことはできる。「ものづくり」に託された希望はその点にあるのだと、今回のキャラバンで体感した。

時間の経過と共に鬱積する疲弊感と焦燥感。過酷な時期は今なお続いている。時間はかかるが、その疲れと焦りを取り除ける日は必ずくるはずだと信じたい。その一端を「ものづくり」は担っている。何か不便な点はありますか?と聞き廻り、今必要なものをつくる。つくられたものによって、何が起こるのかイマジネーションを膨らませる。ポジティブな連想ゲームが人々の中で広がっていくと、明日への力が湧いてくるのだと思う。



3月の鎮魂音楽キャラバンの打合せのため、復興市場へ。地元の吹奏楽部も一緒になって、地域の人々と時間を過ごせる仕掛けを、市場の方々とあれこれ思案する。音楽について思うことがある。人間にとって音楽は、水や食料のように生命活動を維持する要素ではないけれど、僕にとって音楽は、なければ今ここに、こうして立っていることができていないと思う程の要素だ。音楽の力は偉大だ。「no music no life」というキャッチフレーズは、的を射ていると思う。もうすぐ一年が経つ。その日にどんな音を鳴らすのか、その次の日からはどんな音を鳴らすべきなのか、何度も何度も思いを巡らせる。


市場で売られていた干物。メモを紛失してしまったので、魚の名前は分からないのだが、その表情の勇ましさたるや、大きな声で「俺たちは負けん!」と叫んでいるようだ。実際、こうして干物が市場で売られているということの背景には、漁撈が再開し、加工が再開し、流通が再開していることが物語られている。この武骨で勇ましい姿形のこの干物こそが、その証拠なのだと思うと、感動はひとしおである。地域経済にお金を置いていくことも復興の一環であると考え、お土産として買うぞと、鼻息を荒くして財布に相談したところ、 新幹線代で大きなダメージを受けていた財布に、「ダメだ」と言われてしまった。次回のキャラバンで絶対買うたるぞ!10匹1組3000円也!


打合せや視察で時間が経過する中で、翌日に仕事を控える明佳音隊員の電車の時刻が刻々と迫っていた。気仙沼駅発の快速電車に乗らないと、高速バスに乗れないので一大事。しかし、気仙沼駅までの距離と時間を考慮するとギリギリライン。しかも行く手を阻む渋滞。何やらただならぬ様相を呈してきた。気仙沼駅では電車に乗れないと判断し、電車の先回りをして、途中の駅を目指すことに。道路と線路が平行に走っているため、踏切が開いているか閉まっているかで、視界に入ってこない電車の気配が分かる。追いつけ追いこせで車を飛ばす。折壁駅につくと、電車がホームに入ってきた。恭生隊長が滑り込み、電車をとどめ、なんとか無事に見送ることができた。一方その頃、気仙沼駅に見送りに来ていた勝彦さんは、電車の時間になっても誰も現れない状況に首を傾げていた。連絡を取ろうにも、誰にも電話が通じない。この時、こともあろうに全隊員の携帯が充電切れ。小池の携帯に至っては、保健室で充電留守番中という惨憺たる状態。勝彦さんのなかで、「京都の人は冷てぇ」という気持ちがひそかに芽生えたという(笑)。



お待たせしました。いよいよ大工キャラバンの本題に入ります。作業日前夜、細かい納まりを再チェックする。建柱と絡むブレス、Cチャンとの干渉を考慮して、渾身の図面を、英治隊員が26時まで頑張って作成してくれた。材料の数量拾出も完了していたので、早速翌朝から資材購入をすることができた。次の写真がその時のもの。長ものの木材などを運ぶため、マイクロバスの太郎号が大活躍っ。荷物で重くなった太郎号だったが、頑張って月立小学校まで荷物を運んでくれた。登り坂で、ちょっぴり冷や汗をかいたけれど、太郎号のエンジン音は元気いっぱいだった。



話が前後してしまうが、我々が今回の大工作業でやろうとしているものは、みんなが集まれる場所づくり。お茶を飲んだり、気仙沼ホルモンをしたり、テレビをみたり、カラオケができるような場所をつくることが目的である。もともとは、月立小学校には学舎と体育館と、そのふたつを結ぶ屋根のある通路があった。体育館が解体される際に、通路も解体されるはずであったが、一部だけに残されていた通路があった。この通路を再利用して、月立サロン(仮称)をつくろうというのが、今回のキャラバンの趣旨である。そして、これができることによって、交流が生まれ、元気が生まれる。そうあって欲しいという願望にも似た気持ちが根底にある。また、完工した暁には、広く永く愛されるような名前(通称)が授けられることを、心から望んでやまない。



作業中、日が射して青空が広がった瞬間をパシャリ。青と赤と黄色が程よくいい感じになっている。マイナス6℃のなか、月立サロン(仮称)の一次工事がなんとか無事に完了。二次工事は、次回2月チョコキャラバンと平行して進めたいと画策中。 日々、骨に沁みる寒さと肌に突き刺さる吹雪のなか、色々な方が声をかけてくれた。「怪我さ、するんでないょ〜」とか、「凍るんでないょ〜」とか、「お茶っこさ、するさぁ〜」とか、なんだか、すごく寒いけどすごく温かい。「よう!たこ焼き屋〜っ」と、現地の方が恭生隊長をみて、挨拶をかける。「俺は、たこ焼き屋じゃないっつ〜の」と一言返す。でも、その顔はとても嬉しそうに笑っていた。時折、現れる勝彦さんや、SWTJ気仙沼支部長の田村さんや仮設住宅の方々は、適切なアドバイスと共に、心温まるヤジをプレゼントしてくれる。そんな素敵な外野さんに囲まれながら、着実に月立サロン(仮称)は、進行中。






大工キャラバンの実働最終日。月立多国籍軍のお歴々と、調理室で酒盛り。恭生隊長は、大工作業終了後、少し仮眠をとってから参戦。みなさんも準備万端!最初から最後まで、食べてばかりのキャラバン。ボランティアが、ご恩を受けっぱなしでいいのか?これでは、話が逆だと不安になったりもした。はじめは、被災者の方々の話の聞き手に回ることが良いことであり、そうしなければならないと思っていた。だが、違った。話を聞くこと以上に大切なことは、自分のことを話すこと。どこどこ出身で、今は何をしているのかを話す。そうやって、繋がっていくと、友達になれると思う。腫れ物を触るような対応は望まれていない。だから、僕は心の底から友達になりたいと思う。そして、その努力を続けていくのだと決めた。



酒盛りに参戦するため調理室に向かう。扉を開けた途端、田村さんから「メカ三昧んだぞぉ〜」と声がかかってきた。「メカ」?一瞬ガンダムみたいな「メカ」が、頭いっぱいに広がったが、そんなわけがない。落ち着け。あっ、そうか、メカジキのことだ。寒さでフリーズ状態の脳みそが溶け出した頃に、ようやく理解した。メカの大根煮、メカのステーキ、メカのホルモン焼き、どれもこれも港町である気仙沼ならではの豪快な一品。宴もたけなわ、固い握手でお開きとなる。


最終日、気仙沼から仙台へ向かう高速道路の途中、サービスエリアでホットコーヒーを頂きました。そのカップには「たとえ遠く、長い道のりでも、必ず乗り越えられる、日本の力を信じよう」と書かれていた。日々の作業の疲れもあり、帰路につく安堵と、車の温かさと心地よい揺れに、完全にノックアウトされていたが、この標語をみて、身の引き締まる思いがした。今後のキャラバンも頑張って参りまっす!



帰りの夜行バスで、消灯するまでのわずかな時間で読める限り、読み進めようとした本がある。これは、陸前高田の財当仮設団地の新年会で、お会いしたフォトジャーナリストの渋谷敦志さんから購入させていただいた本である。安田奈津紀さん、佐藤慧さん、渋谷敦志さんによる共著であるその本を読んでいてハッとした。「我々がしていることは、パズルの1ピースにすぎないが、その1ピースがなければ、決してパズルは完成しない」と、安田さんが著された一文があった。「そうか、そういうことか」と、声のでない大きな納得をした。





6:30京都着。夜行バスのお陰で、眠いのか眠くないのか分からないまま、洗濯したり、寝袋を干したりしていたが、昼食後どっと眠くなり、あえなくダウン。仮眠後、SWTJ事務局長山中純平さんからお借りしていた寝袋を畳んだ。翌日、お礼を持参して、返しにいこうと思いながら、また寝ていた。夢現にぼんやりとした記憶がある。夢から覚めて、頭に残った記憶はあまりないが、口元に残った記憶はあった。どうやら笑って寝ていたようだ。夢の中でも東北のことを考えていて、楽しいことを、楽しくなるようなことを考えていたのかもしれない。



これからもSWTJのキャラバンは続く。忘れてはならない。風化させてはならない。だから、続けていく。東北のポテンシャルの高さは、将来の日本の舵取りをもしえるものに感じた。東北は必ず蘇る。地震大国日本、いつどこで震災が起きるのか分からない。分からないから怖い、怖いから動かないというのでは、未来の子供達に示しがつかない。怖いけれど、動きながら考えようと思う。SWTJのメンバーと、SWTJの活動を支援していただいている多くの皆さんのお力添えによって、「続ける」という大きな課題に立ち向かうことができる。連なって、輪になって、自分のできることを現地に行ってやってくる。僕のできることは少ない。だけれども、精一杯あがいていくことにした。

長文・駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

SWTJ隊員 小池宏司

 

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